追悼 桂小米

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昭和44年入門。「ちゃあちゃん(うちの師匠、桂米朝の愛称。『あ』にアクセントがある)が初めてあの子を連れて来やった時、とうとうこんなことが起こったと思た。隠し子やと思たんや」とはママ(米朝夫人)の弁。まったくの勘違いではあるが、それほど似ていた。

鳥取県西伯郡出身。最初は訛りで苦労したと聞く。「訛りを克服したのは浄瑠璃(義太夫)のおかげ」とよく言うてはった。私が聴き始めた頃は訛りのかけらもなかった。それでも「うかっとすると訛りが出るから」と、細心の注意を払ってしゃべっておられた。一度、気になった訛りを教えてあげたら、「よう言うてくれた」と感謝された。

その後、鳥取弁をあやつる落語もやっておられたが、こっちのほうがネイティブで生き生きとしゃべってはったかな?

私が最初に聴いたのは「田楽喰い」。まだ桂すずめだった。当時「寄合酒」はやる人があったが「田楽喰い」はあまりやり手がなかった。「電線にでんでん虫が感電し……」は小米兄ちゃんの作と思う。噺家にも男前が居てはるんや、と高校1年生の私は感心した。

当時はまだまだ若手だったが、大ネタも聴いた。一度、FM大阪の公開録音の会で、前座なのに「高津の富」をかけてはって、しかも凄く出来が良かった。今もその録音は残っているが、カセットテープなのでちゃんと再生できるかな?

高校3年の夏休み、桂米朝の元へ弟子志願に行ったが、この時、師匠には会えなかった。応対してくれたのが小米兄ちゃん。その頃はすずめから小米になっていた。「今、内弟子が3人も居てるから、お宅にどれだけ才能があっても弟子にすることはでけまへんのや」とはっきり断られた。もう来るな、と言われたように思ったが、私はあきらめなかった。小米兄ちゃん、あきらめなくて良かったでしょ?

その日、米朝師匠には会えなかったけど、小米さんに会うてしゃべれた……とも思った。ちょっと憧れてたのだ。

桂米二として最初の日、つまり弟子入りした日は、吉朝兄さんの年季明けの祝いと師匠の誕生日の(遅めの)お祝いがあった日。1976年11月14日のこと。主役の吉朝兄さんを「吉朝を送ろ!!」と前の川へ突き落した(「風の神送り」のパロディ)伝説の日となった。その夜、大勢の兄弟子が米朝宅へ泊った。みんなが寝る布団を敷いてると、小米兄ちゃんに「ちょっと来い」と呼ばれてこんこんと説教された。内弟子の心得みたいなことを言うてはるんやけど、酔っぱらってるから意味不明。それを長時間ずっと正座して聞いていた私はまだウブだった。

後日「この間はいろいろ言うていただいてありがとうございました」と言うと、「俺、そんなこと言うた? 全然覚えてへんわ」と返された。こちらは「はあ?」だが、そういうと周りでこっちを見ながらクスクス笑てた人が居た。みんな酔っぱらいの戯言と知っていたのだ。入門したての19歳がそんなことを知る由もないのだが。とにかく、酒飲み伝説は凄かった。

ママが「小米君がこっちの野菜は不味い。ようこんなもん食うてるわ、とこんなこと言いやるんや。なんでそない偉そうに言うの、と思てたんや。ほたら鳥取から野菜を送ってくれはって、それ食べたらほんまに美味しいねん。あの子が言うはずやと思た」とこんな話を聞いた。農家出身の面目躍如。

米子で「桂米朝独演会」があった時、落語会の前に一行で小米兄ちゃんの実家へお邪魔した。米朝、枝雀、米二、当時の米朝事務所、田中社長と。もちろん小米兄ちゃんも一緒に。ご両親に初めて会うた。お父さんがシャイでうちの師匠に会う緊張を紛らわすためか、もう昼間から飲んではって、しきりにうちの師匠にも酒を勧めてはった。当然、師匠は「出番前ですから」と固辞されたが、何度も勧めてはったのが可笑しかった。親子で大酒飲みだったのである。

男が見ても惚れ惚れするええ男なので、さぞかし持てたのに違いない。でも浮いた話はあまり聞かなかった。うちの師匠が「お前、祇園の○○のママに惚れられてんのやろ。一ぺんぐらい言うこと聞いたれ。衣装つくってもらえるかもしれんぞ」と言うてたが、小米兄ちゃんは絶対「うん」と言わなかった。もったいないなあ、と私は思ったが、よく聞いたら相手はおかま(失礼!)さんだった。そっちのほうからも持てたのだ。

大酒飲みだが、酔うと凄く可愛い。「動物園の檻の中へ入れて、前に『酒飲み』とか『酔っぱらい』という札をぶら下げといたらええねん」とよくうちの師匠が言うてた。酒ぐせは悪くない。というか、ぐずぐず言うてるけど周りの人が微笑ましくなるという感じ。落語に出てくる酔っぱらいに一番近い。

うちの師匠とは「飲み友達」と公言していた。弟子の分際でそんなことが言えるのは小米兄ちゃんだけ。師匠のお宅へ泊った回数は断トツで1位に違いない。小米専用の赤いかい巻まであった。何も自分が持ち込んだ訳ではなく、たまたま師匠の家にあった物を自分の物にしていただけなのに、他の人が使うと怒ってた。

少しうちの師匠が弱ってきた頃のこと。昼からお邪魔したらまだ師匠は寝ていた。たまたまその時に小米兄ちゃんがやってきて、まだ寝ている師匠を見て「いつまで寝てまんねん。早う起きなはれ」と言いながら、布団をパッとめくってしまった。見ていた私はあっけに取られたが、それで師匠はちゃんと起き上がったのだ。まったく怒りもせずに。さすがは飲み友達である。

落語のほうは、スケールが大きかった若い頃と比べると、ちょっと伸び悩んではるなあ、と思う時期があった。失礼ながら、おとうと弟子の私はそう感じたのだ。うちの師匠も同じように思てはったようで、何人かで飲んでる席で、最近の小米は……という話になった。「もっとしっかりせえ。ええか、お前は本命やったんやぞ」と大きな声で師匠に言われた時、小米兄ちゃんは泣き出した。横に居た私は辛かったけど、小米兄ちゃんの実力はこんなもんやない、とも思た。今から思うと、体調に異変が始まった頃なのかなあ。

私の落語は認めてもらってたようで、何の時だったか覚えてないが、やっぱり飲んでる席で知らない人に「米二はこれからの男です。もっと聴いてやってください。聴いてもろたら分かります」と力説してくれた。嬉しかった。

「軒づけ」の忠臣蔵五段目の文句、「またも降りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道は闇路に迷わねど」と私が言ったら、小米兄ちゃんが「違う違う。『道の闇路」や」と言うてくれはった。それは私も分かっていて、確かにうちの師匠はそう言うておられる。「でも文楽でも歌舞伎でも『道は闇路」なんです」と私は逆らった。「何言うてるねん、お前は間違うてる」と言われて、もうそれ以上は言えなくなった。次の日の朝、電話がかかってきて「すまんすまん、あれ『道は闇路』やな。床本調べたらそうやった。ということは、ちゃあちゃんが間違うてはるんやな」と言われた。自分の間違いはあっさりと認めて謝ってくれる兄弟子だった。

2000年代に入ってからは気の毒なことが続いた。股関節の病気(なんという病気やったんやろ? 病名は知らない)で正座ができなくなった。それで大手術をして、股関節が全部チタンになった。その時から小米兄ちゃんのメールアドレスに「kokansetsu」の文字が入った。前向きに考えてはったんやろな。

正座ができるようになって、良かったなあと思ってたら、今度は声が出にくくなってきた。ガラガラというかザラザラというか、小米兄ちゃんの声ではなかった。一時的なものではなく、それが長く続いた。喉頭がんだったのだ。京都のある会で聴いてて、前よりも声はひどくなってるなあ、と思っていた。降りてきて「俺はもう二度と出えへん。もう落語せえへんねん」と吐き捨てるように言った。それが桂小米の生の落語を聴いた最後の日となった。2009年10月23日のこと。

それから長い間会わなかった。こんな噂を聞いた。手術して声帯を取ったらしいと。連絡しても返事はなかった。人と会うのが……いや、元気にしている仲間と会うのが辛かったんやろなあ。

2015年3月24日と25日、うちの師匠の通夜と葬儀の日。この日は小米兄ちゃんが来てくれるんやないか? 私だけではなくてみんなそう思ってた。一番の飲み友達が亡くなったというのに、やっぱり来なかった。もう会えないのかなあ。

2019年5月30日、突然……本当に突然、メールが来た。小米兄ちゃんからメールや。「今、園田に住んでる。園田で会やってるんやなあ。ポスター見たわ。頼みがあるんやけど、落語関係の本や物、貰ってくれへんか」とのこと。園田の会とは「阪急園田駅前落語会」のこと。今は会館が建て替えで休会になっている。「喜んで頂戴します」と伝えたら、すぐに宅配便で送ってくれた。段ボール箱二つ。こんなにたくさんあるとは。

中身は本やCDの他、雪駄や袴板、腰紐に扇子、手拭に帯も。着物があれば今すぐ高座に上がれるがな。すでに持ってる物は二豆に譲ったが、あとは大事に残してある。すぐにお礼のメールを送った。「園田に居てはるんやったら、落語会に顔見せてくださいよ」とお願いした。

それから約2ヶ月後の8月12日、本当に「阪急園田駅前落語会」へ来てくれた。外で待ってたら、昔とほとんど変わらない小米兄ちゃんが近づいてきた。思てたよりも若い!! 右手を軽く上げて「よっ」と言いながら、見慣れたポーズで。それに相変わらず色は黒いし。

完全に声が出なくなってるので、筆談でいろいろと話した。成之介君(長男)が銀行の支店長になってるとか、ちょっと誇らしげに。私が一番気になっていたのはお金のこと。それにも答えてくれた。「がん保険入ってたんで助かったんや」とのこと。見た限り、声以外は前と変わらず、健康そうに見えた。けど「がんが再発した」とも。

ではまた、と言うて開演前に帰ってしまった小米兄ちゃん。会うたのはそれが最後。たぶん仲間内で最後に会ったのは私であろう。その後、また連絡は来なくなった。

2021年4月26日没。享年70歳。

合掌

1994-08-30 サンケイホール楽屋 小松左京 米朝 小米.jpg

兄弟弟子って濃い仲やなあ。実の兄弟より思い出がたくさんある。

珍しい写真が見つかった。桂枝雀と桂小米のツーショット。二人とも酔ってる。1989年8月1日、文之助(当時は雀松)兄のお宅で。PLの花火を観に行ったのだ。

もう1枚は旧サンケイホールの楽屋で。1994年8月30日。桂米朝、小松左京先生の顔も見える。要するに私と小米兄ちゃんのツーショットは見つからなかった。

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この記事へのコメント

初代杢兵衛
2021年04月29日 10:22
残念です。声がかすれておられていやな予感はしていたのですが・・・。
唯一手元にある代書の録音をまた聞いてみます。
ちりとてちん
2021年04月29日 11:17
米朝夫人がハンバーグを出したら、「これ、馬の糞ですか?」と言わはったのは、小米さんでしたっけ。

今頃は、あちらで師匠の鞄持ちをされているでしょうか。

合掌
匿名希望
2021年04月29日 19:37
地元の落語家さんなので、いつかきいてみたいと思っていましたが、情報もあまりなく辞められたのか生きておられるのかわかりませんでした。亡くなられたと知って驚きました。小米さんのご冥福をお祈りします。
じーやん
2021年04月29日 19:44
落語の神様は小米兄ちゃんに対して惨いと思います。私が最後に落語を聴いた時、まだ50代でしたから。
天野 博
2021年04月30日 06:21
小米さん、すずめ時代は何度か噺を聞きましたが、小米になってから聞いたかどうか、記憶がさだかでありません、残念です。
初めて見たときは、まぁ、男前の噺家やなぁと、思いました。
米二さんの記事で小米さんの生活が、良く判りました、ありがとうございます。
米二さん、小米さんの分も落語に精を出してより一層の活躍を期待します。
taka-me
2021年04月30日 12:04
そうか、この人やったんか。小米師匠のイメージが無くて、名前がよう出る割にははっきりしてませんでした。そういえば、ちょっと昔、よく観せてもらってた顔ですわ。
米朝師匠も辛かったでしょうね。かわいい弟子が、病んだり、先に逝ったりが多かったから。けど、今は、ええでしょうね。もうちょっと、若くしてもらって、自分で一席やっては、一服やって。弟子の落語を一席聞いては、一杯やって。にぎやかやろなあ。ええなあ。行こかしら。
死んだ話のときに、妙に心が騒ぐのは、自分にも近日来演の札が貼られてるからでしょうね。
小米師匠、岡山の地方紙にも、しっかり死亡記事出てましたよ。
お先にどうぞ。ご苦労様でした。
quinquin
2021年05月01日 22:38
談四楼師のツイートで訃報を知りました。私は東京の人間ですが、上方落語が好きで、91年頃か、コスモ証券ホールで開かれていた米朝一門の独演会で、小米師も聴きました。口合小町と、もう一席は思い出せません。端正なルックス通りの、嫌みのない語り口だったと覚えています。病のために、これからという時に高座を退かざるを得なかったことを初めて知りましたが、米二師匠の文章で、お人柄が活き活きと浮かび上がってきました。ご冥福を祈ります。